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悠久録(過去の悠久録はこちら)
長岡新聞・悠久録No.1152:大竹寛一

大竹寛一(1860〜1944)は中之島の大庄屋の家に生まれた。親は相当な資産家であり、
土地の有力者だったのだろう。だが中之島は水害が多い所。一面泥に埋まった田畑や家屋、
農民の悲惨を幾度も目にして大竹は心を痛める▼幼くして鈴木文臺の「長善館」(燕市)に学
び、さらにわずか13歳で新潟学校に入学。工学を学ぶ。治水のために役立てたかった。だが
中退。そして中之島村会議員に就任した。刈谷田川や信濃川の氾濫による惨状を知りすぎて
いる大竹にとっては、工学の知識では物足らなかったようだ▼魅力ある人物だったらしい。大
竹を知る人は強固な連帯意識を持ち、その様子は宗教集団「大竹宗」とも言えるほどだったと
伝わる。だから選挙にはめっぽう強かった。第3回衆議院議員総選挙に新潟県第4区から出
馬して当選。その後、当選を重ねて通算16期、34年10ヵ月つとめた。そのうえ貴族院勅選議員
にもなった▼議会に依って大竹の治水運動はさらに熱をおび、県・国を動かす。だが議員生活
の後は見るべき資産は残っていなかった。多くの資産を治水活動に費やし、蓄財をしているヒ
マがなかった。残っていたのは井戸と塀だけ、いわゆる「井戸塀代議士」の典型だったと伝わ
る▼幼い時に学んだ「長善館」では、創業の鈴木文臺が良寛に師事し、その「慈愛の心」を教
育の太宗に据えていた。大竹には、その教是が心に沁みたのだろう。思いやりの心は連綿と
して伝承され、大河津分水の実現に繋がる▼崇高な理念は時を越えて人を動かしていく。(と
けいそう)

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