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愛縁奇縁
〇長岡藩福井村(現長岡市)の漢方医の家に生まれた長谷川泰(1842年〜1912)は、戊辰
戦争に従軍し、河井継之助の傷の手当てをした。だが戦争のさなかに西洋医の不足を痛感す る。そして、これからの日本には西洋医術が最重要であると、考える。
戊辰戦争に従軍し、河井継之助の死をみた泰の原点であろう。
〇泰は若い頃、漢学者の鈴木文臺(ぶんだい・1797〜1870)が開いた私塾「長善館」(ちょ
うぜんかん・粟生津村・現燕市)で学んでいる。文臺は泰に「良寛の慈愛の心」を教える。越後 が生んだ良寛はその慈愛の心で今も多くの人々に慕われている。
文臺は、良寛が示したように、慈愛の心をもって医者になり、「世のため、人のために」励めと
泰を指導した。
文臺の教えを胸に上京した泰は、1876年「済世学舎」(現日本医科大学)を立ち上る。ここか
らは大勢の西洋医が巣立ち、日本の西洋医の大部分を占めるようになった。卒業生には野口 英世(細菌学者・1876〜1928)や吉岡彌生(東京女子医大創始者・1871〜1959)など有 能な医学者がいる。当時の日本医学会(西洋医)の大勢力だった。
〇泰は、第1回帝国議会(1890)の衆議院議員に当選した。このとき後に「日本の細菌学の
父」として尊崇を受ける北里柴三郎(1853〜1931)を知る。その学識・見識に感心した泰 は、北里の伝染病研究所設立を応援する。
福沢諭吉の協力を得て帝国議会で論陣を張る泰の支援もあって、北里の伝染病研究所は無
事に設立になった。これが今に続く北里大学であり同研究所である。その後北里は第1回ノー ベル生理学・医学賞最終候補者(残念ながら受賞者にはならなかった)。慶応義塾大学医学 部創立者、同大学病院初代病院長、日本医師会初代会長など、医学界の重鎮として活躍す る。
〇一方の泰は、内務省衛生局長(現厚生労働大臣に相当)に就任し、公衆衛生の向上に心を
砕いた。日本初の「下水道法」の成立も泰の手で実現する。
今、泰の銅像が北越戊辰戦争伝承館(長岡市大黒町)前に建ち、故郷を見詰めている。建立
には泰の理想に共鳴した地元の人びとの力があった。医学界の先達として敬愛する多くの医 師たちの協力があったという。
〇長岡出身の泰が、文臺から学んだ「人のために」は、こうした縁の中で北里に伝わったこと
だろう。さらに、ノーベル賞を受賞した北里大学特別栄誉教授大村智さん(80)にも伝わったこ とだろう。「人の役に立つこと」を信条とする大村さんは、右が左か判断に迷った時は、どちら が人の役に立つのかと考え、「人の役にたつことだけを考えてきた」という。
この教えは祖母の教えであり、勤務する北里研究所の創始者北里柴三郎の教えでもある。
鈴木文臺から長谷川臺に伝わった教えは、北里柴三郎を経由して大村さんにまで伝わった
と言っても良いだろう。
〇長岡市が教育大綱『米百俵のまち長岡の教育』を決めた。「米百俵」は、今の困難に耐え将
来のために人材を育成しようとした故事である。今も変わらぬ教育の根本であって、教育大綱 もそのような理念が根底にある。基本理念は「子ども達一人ひとりの個性が輝き、幸せを創り だしていける教育の推進」とある。
理念は連綿と繋がっていく。大いなる展望を新年に描き、100年の大計に資したいものであ
る。(社主)
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