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愛縁奇縁
No.134:「人道」に徹した日本人
隣人への慈しみを忘れてはならない

○顔面全体にやけどをした女児(3)が死亡した。傷がほぼ全身にあった。母と継父は「病院に
連れて行かず、何もしなかった」とし、継父は「自分がお湯をかけた」と供述している。
類似の事件があとをたたない。なぜこのような狂暴な事件が起きるのだろうか。人間はもっと、
思いやりに満ちているのではないのか。

〇1921年、ポーランド(首都=ワルシャワ)から赤十字賞を、1929年には名誉賞も贈られた
女性がいる。名前は松澤フミ。日本赤十字社の看護婦だった。新潟県出身という。 
彼女はポーランドの孤児たちに手厚い看病をし続けた。特に母も姉も失い、しかも凍傷で手足
を失った女児(当時3)には、自分が代わりになるといい、常に付き添ったという。おかげで女
児は助かったが、女児が罹っていた腸チフスがうつり死亡する。23歳での殉職だった。

〇フミを顕彰したポーランドはドイツ、帝政ロシアなどの大国に隣接し、何度かの分割・併合を
受けている。国家としては消滅していた時期も長かった。
一方で独立運動は激しく、これに対する弾圧も厳しかった。とりわけロシアはポーランド人の多
くをシベリア(ウラジオストック)へ流刑した。このため流刑の父や夫について、多くのポーランド
人がシベリアへ渡った。その人数は20万人とも30万人ともいう。
第1次世界大戦後の1918年、ようやく独立を果たすが、多くのポーランド人は帰国に難渋す
る。当時の帝政ロシアは共産革命で崩壊。共産党政権はシベリア鉄道の利用を拒絶した。残
る手段は徒歩しかない。だが冬のシベリアを徒歩で横断できるのか。
1919年、ポーランド救済委員会が結成になり救援を各国に要請したが応じる国はなかったと
いう。

○最後に頼ったのは日本である。時の総理大臣は原敬。ロシアの共産革命をけん制するた
め、シベリアへ出兵していた時期である。決断は16日で出た。日本赤十字社が現地へ飛び、シ
ベリア出兵中の陸軍兵士が子ども達の救援に動いた。飢えと寒さで動けなくなった子ども達7
65人を見つけ出す。兵士一人ひとりが腕に抱えて、運んだという(親はすでに死亡していた)。
こうしてポーランドの子どもたちを日本赤十字社と仏教諸宗派が合同で設立した貧窮孤児救
済の福田会育児院(現社会福祉法人福田会)が引き受けた。

○フミはそのようなポーランドの孤児を慈しんだ日赤看護婦の一人である。最初の仕事は、衣
服を整え、靴を与えることだった。2006年、孤児の最後の一人・アントニーナ=リロさんが亡く
なる。90歳だった。彼女は死の床で「日本は天国のようなところだった」と述べたという。

〇同じようなケースでは、杉原千畝(すぎはら ちうね)がいる。千畝は外交官としてリトアニアに
駐在したとき、ユダヤ人へのビザ発給を行った。千畝のおかげで、およそ6000人のユダヤ人
が難を免れ、命を全うしたという。当時の日本はナチスドイツと同盟関係にあり、ビザ発給を認
めていない。千畝の行動は訓令違反になる。だが、人道的であったことは確かであり、その点
で今も世界の尊敬を受けている。

○敗戦後、千畝は命令違反として外務省を追われたが(1947年)、イスラエルは1985年、
「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を授与。千畝の職をとした決断に感謝し
た。
松澤フミや杉原千畝には、人間への深い慈しみがある。(黄色い風見鶏)


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No.133:長岡版『地方創生』にかける
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