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あとがき「跋」

<長岡築城物語のあとがき跋を原文のまま転載します>

 越後長岡(新潟県長岡市)は、江戸時代、譜代大名牧野氏七万四千余石の城下町であっ
た。梯郭式の平城は約一平方キロメートル弱の規模で、十七の城門、十三の隅櫓を擁する巨
大な城であった。少なくとも、今から百四十六年前まで、長岡城は存在していた。
ところが、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争で焼失し、本丸跡に北越鉄道会社の長岡駅がで
き、二之丸跡に宝田石油会社の本社社屋が設けられると、みるみる市街地に変っていてみる
かげもない。城跡が全くといってよいほど粉滅した。この現象は長岡城以外には例がない。
 全国の各城は、明治維新後の城郭破却令にあったが、その残存は今なお、歴史の重みを漂
わせている。
 長岡城は本丸跡の天守櫓のお三階の地名と、二之丸跡にある城内稲荷の旧跡を残すのみ
である。ここまで消滅してしまうには理由もあろうが、長岡の市民性も大きく由来していると思
う。すなわち、藩主牧野氏は領民・家臣あってこその長岡藩という姿勢を貫いた。
旧暦六月十五日の蔵王大祭には城下十八か町の屋台行列とともに領民一万人以上が、大手
門より城内に入った。この日は領民の一割以上が城内見物に集ったものだ。
 また、年貢が皆済したことを祝って、正月には二之丸書院や本丸御殿に能舞台を設置し、各
組の村役人(庄屋等)を招いて、能・狂言を拝観させている。ときには藩主みずから演じ、家臣
の女性や町人たちにも見学させている。
長岡城下には、およそ徳川政権が築きあげた封建制とは違った、いわば士民協働の精神が
充満していた。
 たとえば、三河武士団が持ち込んだ常在戦場の精神は、町人の生活規範を決めた「町中
掟」の冒頭にあり、また農民の「郷中守書」にも記載されている。それは非常に備え、節倹と技
術革新の美風となり、今日の近代商工業都市を生んだ。
常に今を生き抜く市民性につながっているといえよう。そういった考え方は一朝一夕にできあ
がったものではない。必ず原点、つまり、歴史があるものだ。
 本稿は長岡誕生の謎を解きあかそうとしたいわばフィクションである。史実に添ってはいる
が、長岡の城と町をつくる創意については仮説に基いている。
 戦国時代末期、戦乱に倦いた人びとは、北のまほろばを求め越後に入ってきた。
堀氏や牧野氏のような封建領主とその家臣団もいたが、多くは加賀・越中・信濃から寺院とと
もに移住してきた一向宗(浄土真宗)門徒であった。彼らは一様に戦いのない浄土を求めて、
沼地に入り新田開発をすすめた。それは領民(人民)のための理想郷の出現につながった。
 ところが、時代はデモクラシーのときではない。戦国武将なり封建領主の誰かが地方分権の
力をかりて、その理想郷をつくらねばならない。本稿は二人の武将、堀直竒と牧野忠成。そし
て直竒にまつわる二人の女性が主人公である。二人の女性。すなわち妙泉院と妙徳院は長岡
誕生の多くの謎を解決するキーワードをたくさん持っている。
 城下人口の五十%近くは商工人であった。そして、その多くが門徒だった。二人の女性はそ
の門徒をかばい、庶民を大切にする政治を念願とした。ときには立場を利用し、将軍・高僧・領
主に理想郷の出現を懇請した。
 このフィクションは単なる歴史物語ではない。城づくり、町づくりの過程のなかで、長岡の歴史
上に人間がみずから生きるための証明、つまり解読しようとした物語である。
 そして、我々は歴史の影にひそかに生き続いできた二人の女性の魂を引き継いできたことを
改めて知るべきだと思う。

二〇一四年四月
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