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悠久録(過去の悠久録はこちら)
(10月7日分)
10月に入り秋の気配が強い。稲刈りがすっかり終わっている。枝豆も借り入れがほぼ終わっ
た。紅葉が始まるとともに、季節は晩秋に向かって駆け足である。もう少しすれば、消雪パイプ の点検が市内のあちこちで行われるだろう。10月は秋たけなわであるが、同時に季節の変わ り目に向かう時でもある▼「秋」の言葉には様々なイメージがある。「春」や「夏」と異なる何か があるのだろうか。俳句で「秋の朝」と言えば思い浮かぶのは爽やかな印象であろうか。どちら かと言えば単刀直入な朝の光景であり、しかも初秋のまだ浅い秋をイメージしてしまう。「桑の 葉に秋の朝雲定まらず」(大野林火)▼俳人飯田蛇笏は「一瞬、呼吸を止めたその呼吸を、ほ っと漏らした感じが秋の朝」と言っている。蛇笏は難しく表現したが、言わんとするところは、こ れから訪れるであろう晩秋や初冬への緊張感と、眼前の爽やかな朝がもたらす安堵感の交差 を指すのだろ。緊張と安堵の狭間に「秋の朝」があるとすれば、日本語はまことに繊細である。 「足もとはもうまっくらや秋の暮」(草間時彦)▼これに対して「秋の暮」は複雑である。『新古今 集』の「三夕」の歌は、秋の夕暮れの光景、それも晩秋の光景をうたって、なにやら寂しい。「秋 の暮」の言葉には、人生の哀しみを示し、来たるべき冬の厳しさを予見させる▼10月4日は 「米百俵まつり」だった。勇壮な時代絵巻が青空の下で繰り広げられた。いよいよ秋である。冬 到来の前にひとときの爽やかさを秋に求めたいものである。(とけいそう)
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